2012年4月22日日曜日

忘却のための思い出 『ニーチェの馬』より その二








食べるという行為が、この映画の中で執拗なまでに象徴的に描かれるのはなぜなのか。
しかも、行為の象徴性は行為を用意する場面にありありと示される。
娘は、床に置かれた木箱の中に蓄えられているジャガイモからその二つだけを手に取る。
水を張った無骨な鍋の中へジャガイモが入れられ、火にかけられる。
ここではジャガイモの属性が除かれていて、まったくの形式として扱われているように思われる。
そのために、ジャガイモは食物というより、無機質な石を連想させる。


ジャガイモが茹で上がる間、娘は窓の前に腰かけ通過する風を見ている。
娘はいつものように父を呼び、食べるという行為を促す。
父は、茹で上がったジャガイモの皮を指で剥ぎ、そのかたまりを砕き、熱さにいびられ、まるで罰を受けているか
のように、急かされるようにして口に運ぶ。苦悶の顔を浮かべながら。それに比べて、娘の食べ方には淀みがない。
行為はすぐに終わり、ジャガイモは必ず半分以上残され、娘はそれを台所に捨てる。
父は、娘と同じように窓の前に腰かける。そうして存在はふたたび延滞に連れ戻されるのである。
延滞は、決して破られることがない。




食べるという行為は、延滞への消極的な割り込みに過ぎない。
ここだけに限らず、この映画ではひとつひとつの手続きが慎重に繰り返し扱われている。
そして、決して何も起こらないかのように見えるのだが、手続きの反復の背後には変調が予期されており、
具体的な出来事をともなって次第に顕在化していく。


変調の徴候は、まず外部からの来訪者によってもたらされる。
…町は堕落した、正しさのもとからすべては奪われていく、われわれの堕落はそれを創り出した神の堕落と
ひとしい、ならば神などはじめから不在だとすれば?善悪もはじめから不在だとすれば?
われわれの堕落も不在になるのでは?正しさのもとから奪われていくすべても奪われる前から不在になるのでは?
しかし、町はすでに堕落し静寂すら奪われようとしている、不死さえも…
酒を分けて欲しいとやって来た男は、長々とモノローグを残して去っていく。男の後姿が、窓越しに観察される。
やがて、流れ者たちが井戸を荒らしにやって来る。彼らは男のモノローグに出てきた略奪の象徴として登場する。
娘は父に命じられて、彼らを追い返す。そのうちの一人が娘に聖書を手渡す。聖書には終末がほのめかされている。
そして、ある日井戸が涸れる。ランプの灯りが消え、暖炉の火種も絶える。
移動を試みるが、それも断念され、ふたたびもとの場所に引き戻される。そこには永遠の停止が待っている。
娘は窓の外を見ている。が、もはや何も見えていない。無辺の死を象徴する風を前に、娘の顔は停止している。
最後、二人は食卓に座り、皿に盛られた冷たく固い石のジャガイモを前にして押し黙る。
食べなければならないそれは、食べることができない。延滞すら奪われ、無辺の闇が全徴候化していく。




存在は、繰り返される延滞の中に落ち、停止か移動かのいずれかの選択を行い、一時的な出来事に引かれては、
ふたたび延滞へと連れ戻される。生とは耐えがたき延滞のことである。それは、遡ることのできない永遠の停止を
意味する。しかし、生からその停止を取り出し、それと存在とを生に戻すようなことが可能ならば、
延滞はあの透き通る平静さの浸水を付帯して、抜けるような持続へと変わるだろう。
そこでは、永遠の停止は永遠の記憶となって不在の持続の内に忘却されていく。
忘却のために思い出される死のように。










2012年4月15日日曜日

反復と徴候 『ニーチェの馬』より




石の壁は、横殴りに転落していく風を絶つ。 
猛烈な落下を繰り返す風は、忌々しき徴候をその中に息潜めさせることを止めない。
石は風を絶つ。しかし、締め出されているのは風ではなく、
石の壁に封じ込められた室内の静謐の方だということは誰もはじめは分からない。



父と娘は示し合わせたかのように、窓の前の椅子に交互に腰かけて風を見ている。
まるで、走る列車の窓から過ぎ去る景色を眺めるかのように。半ば何かをあきらめている様子で。

緩慢な手続きの反復には、物事の変化などまったく予期されていないかのように見える。
そして、矛盾するようだが、どれだけの変化が予期されるのかを知るためには、実のところ反復をこそ要する。
手続きの反復は、同じ作業のまったくの写しではあり得ない。
なぜならば、反復は差異の発生を前提に行われるものであるからであり、翻して言えば、
変化の徴候とは、反復の最中に生じる差異を先取りして示されているようなものかも知れないということなのである。


この映画には、会話がほとんどない。ないというより、悉く省略されている。

 「おい」
 「なに父さん」
 「お前も聞こえていただろう」
 「なにを」
 「木食い虫の音がしない」
 「ええ、しない」
 「58年間いちども途絶えなかったのに、突然聞こえなくなった」
 「なぜ」
 「分からない」


台詞は相手に向けて発せられているというより、誰もいないところ(不在の地点)へ寄せられているかのようだ。
このやり取りの間、画面には登場人物は出てこない。やり取りの行われる少し前から、居間だけが長回しで映される。
ここでは、人物さえ省略されている。二人の意識だけが捨象され、それが居間に投じられていると言えばよいだろうか。
このシーンは、後々症状となって訪れる変化の伏線になっているのだが、
抑制のきいた静かな映像は見る者にふと
舞台の出現を思わせる。


エレメントの省略は、場所の徴候化を引き立てる。タル・ベーラにその意図があったかどうかは分からないが、
私は、私たちが生きていること、もしくは死んでいないこと、
さらにどちらでもあってどちらでもないと認知される可能性から導き出される存在の輪郭のようなものが、日常的な会話や
やり取りを極力排したときにはじめて、ひとつの背後性あるいは残影となって表象化することを願うほかない。
その表象化に向かうときの傾き加減は、徴候が有している。そして、徴候は再びやって来るという意味合いにおいて、
かの反復の俎上で炙り出されるわけである。


父と娘の二人は繰り返し同じように食事を行う。茹で上がり簡素な皿に乗っけられる頑強なジャガイモは、
石を連想させる。
パーリンカの瓶は虚ろになり、過度に近接して撮られる窓は中間的な位相へと遠ざかり、
風にやられた馬は永遠の休息を待ち望むかのように食べることを拒絶し、井戸は涸れ、
二人は退くことを余儀なくされるがどこへも行けない。

ラスト近くで、窓を眺める娘の顔が遠方から徐々にクローズアップされていくのだが、
その顔が幽霊のように見えたのは私だけではないだろう。
この映画には、奪われた静寂と死が、ふたたび静寂と死を取り戻すことの困難さが示されているように思われる。
そして、見る者は、知らない内にあの風を待ち望むようになる。



『ニーチェの馬』2012年4月14日第七藝術劇場
監督:タル・ベーラ 脚本:タル・ベーラ、クラスナホルカイ・ラースロー 
撮影:フレッド・ケレメン 音楽:ヴィーグ・ミハーイ
出演:ボーク・エリカ、デルジ・ヤーノシュ
ハンガリー=フランス=スイス=ドイツ/2011年/154分/モノクロ/35㎜/1:1.66/ドルビーSRD

2012年2月26日日曜日

徴候優位型の表象




徴候のことを引き合いに出したがるようになったのは、アルド・ロッシ(Aldo Rossi)を知ってからである。
ロッシは、『都市の詩学』(東京大学出版会)という本の中で知った。もう一度その部分を紐解こうと思い、
特にマーキングが当たっていない箇所を中心に読み直してみた。
すると、たいへん驚くべきことが書かれていたのである。そこには、春の力学において露呈した事態が

すでに分析されてあったのだ。

以下は、成人型記憶と幼児型記憶とを比較し、幼児型記憶システムとアルド・ロッシの方法との関係性に
ついて言及している箇所である。


 P38-39
 |アイゼンマンによれば、ロッシの類推的描図は、二つの「【時間の停止状態】」を表している。
 |そのひとつは、「過程」としての時間の停止であり、建築物へ向けた前進運動のなかには
 |あっても、その完成形態の再現にまでは到達していない。もうひとつは「雰囲気」としての
 |それであり、描かれた影によって時の停止が示されている――


 |  時間の表現は無限定の過去として示されるのであって、それが連れ戻す先の無時間の
 |  時点は、幼年期のそれであり、幻覚であり、断片的な強迫観念や自伝的なイメージの形
 |  における、著者自信の【疎外】された幼年時代である (…中略…)ここでも記憶が始まる
 |  のは歴史が終わったときなのだ。それがまたがるのは、未来の時間と過去の時間の双方
 |  である。それは一つの計画案であるが、なされるべきものであると同時に、すでになされた
 |  ものであるのだ。廃墟のイメージによって活気づけられるのがこの無意識の記憶なので
 |  あり、それがつなげて見せるのが、捨て去られたもの、断片的なるものと、新たな始まりの
 |  時なのである。

 |言いかえればそこにあるのは、【トラウマティックな過去の反復】であると同時に、
 |【定かでない未来の予感】なのである。
 |中井久夫によれば、外傷性のフラッシュバックと幼児型記憶とは明らかに類似している。

 |この両者ともおもに【鮮明な静止的視角映像】であり、【断片的で文脈をもたない】。
 |時間がたっても、その内容や意味、重要性は変化しない。さらに、【鮮明であるにもかかわらず、
 |言語で表現しにくく】、絵に描くことも難しい。
 |夢作業による加工も受けず、そのままのかたちで夢に出てくる。
 |中井はこうした類似の原因をめぐって、幼児型記憶の内容は成長過程で消去されるものの、
 |そのシステムは残存し、外傷的体験の際に顕在化して働く、という仮説を提起している。
 |そして、【幼児型記憶システム】のこうした作動の仕方は、それが【現前しない危険への警報】の
 |ためにあるところに発しているという。



私が注目したのは、次の2点。1つは、「鮮明な静止的視角映像」。これは、「時間の停止」とくっつけられる。
もう2つは、「断片的で文脈をもたない」という点。重要なのは、いずれも幼児型記憶システムが作動
するところに発しているという説明である。



 P40
 |以上のような記憶の構造から考えて、成人型記憶に対して幼児型記憶のシステムが依然として

 |優位にあるような場合、体験の連続性が障害に遭い、「自己史記憶連続体」がうまく成立して
 |いないことが予想される。…【幼児型記憶のシステムが活性化した状態】とは、【連続性ではなく
 |断片性優位】の、【言語化を拒むような鮮明な視覚映像が脈絡を欠いたまま並列されている】事態
 |であろう。


「言語化を拒むような」「鮮明な視覚映像が脈絡を欠いたまま並列されている」状態とは、まさしく
春の力学において否応なく見て取れた象徴的な症状に他ならない。そうなると、あれがそもそも
演劇
はなり得なかったこと(というよりも、演劇以外の何であり得たのか)をめぐる検証に兆しが見えてくる。
すなわち、春の力学が演劇という形式にすり替わって現出したあり方とは、静止的視覚映像輻輳、
重ね合わせ…、しかも連続性を拒絶した断片性優位の状態で形成された非発展的・非創成的
“点滅性のディスプレイ”であったということが言えるのではないか。

時間の停止、それが視覚として保持された状態、そこに見て取れる症状以前の徴候。
私が断続的に関与してきたのは、おそらくこうした文脈喪失型のイマージュとその傾向においてなのだろう。



 |成人型記憶と幼児型記憶のシステムが単純に対立関係をなして、相互に相いれないもので
 |あったならば、幼児期の記憶を想起する試みが【幼児型記憶のシステムの再活性化】にまで
 |いたりえた場合、それは破局的な結果になりかねないだろう。「疎外された幼年時代」に何度も
 |立ち返るように記憶を遡行し、建築の情念型を発掘するロッシの自伝という方法 ――それは
 |交通事故の外傷的記憶と無縁ではあるまい―― は、そんな危険と隣り合わせだったのかもしれない。


アルド・ロッシの外傷的記憶に相当する幼児記憶を、私はとりたてて持っていない。
トラウマ性のものも思い当たらない。
ただ、幼年期の疎外感あるいは疎外感の持続ということがらが、
私の感覚形成にかなりの影響を及ぼしているだろうことは推し測るに難くない。
その感覚は、いまだに新しく徴候をともない、繰り返し私の外側から私のもとへやって来る。

 P42
 |【パラタクシス性=重ね合わせ性 …パラタクシックな記憶】
 |
 |パラタクシス性やパラタクシックな記憶を、情動喚起的な性格をともなったこうした記銘と想起の

 |構造に発して、サリヴァンの体験した【無数のパラタクシックなイメージの蝟集】までを包摂する
 |ものとしてとらえるとき、 それは建築の「情念定型」を【反復】しながら【類推によって模像を
 |増殖させてゆく】ロッシの手法を理解する枠組みとなりそうに思われる。
 |
 |とりわけ重要なのは、ロッシの類推的ドローイングが「無限定の過去」にありながら、何らかの

 |出来事を予感させる「徴候」の性格をもっている点との関わりである。
 |アイゼンマンの言う「雰囲気」としての「時間の停止」は、デ・キリコの作品にも通じる特徴であり、
 |同様の「徴候性」はそこにも認められる。
 |
 |「徴候」とは、中井によれば、「何か全貌がわからないが無視しえない何かを暗示」するものであり、
 |ある場合には、世界自体が徴候で埋め尽くされ、あるいは世界そのものが徴候化する。そして、
 |このように世界が徴候化するのは、一般に、不安に際してである。


 P43
 |A)微分回路的認知…予感・徴候的で繊細な差異を先取り的にとらえようとする
 |B)積分回路的認知…刺激の入力に対して過去の蓄積された全体像を参照する

 |A)B)=「メタ世界」⇔「比例世界」*
 | *外界の刺激強度を対数に変換して認知する/ウェーバー=フェヒナーの法則が

 |  当てはまるような世界

 |プルーストの『失われた時を求めて』はひとつの「積分的メタ世界」の索引であり、それに対して、
 |詩とは一般に言語の【徴候優位的使用】によってつくられる【微分的メタ世界】である。

 |ロッシの作品やドローイングがこの【徴候優位型な詩】に似た性格をもっていることは直観的に
 |了解される。その点をロッシ自身がまさにひとつの詩を翻案するかたちで語っていた。
 |その詩とは、ヘルダーリンの「生のなかば(Haelfte des Lebens)」…「囲壁はつめたく/ことばなく

 |立ち 風吹けば鳴る、/屋根の風見は」
 

 |ロッシのドローイングに繰り返し描かれた小さく堅い鉄板の旗は、この際立ってパラタクシス的な
 |詩のなかの風見の旗に由来している。
風向きをみるための旗という徴候そのものが、ヘルダーリン
 |の詩に通じるロッシの「ことばなき」建築という詩のアレゴリーになっているのである。


春の力学では、「積分的メタ世界」と「微分的メタ世界」の相互振幅が(少なくとも)予期されていた。
田中は、小春にとって「微分的メタ存在」として働き、小春はそのサイン(徴候を有する)によって

「積分的メタ世界」に対してひらかれた状態になるのと同時に、「微分的メタ世界」を感応し、
その感応のまま世界に対してもう一度存在をひらいていこうとする(あるいはひらいていくことを意識し
選択する)。
反対に、田中にとっての小春は「積分的メタ世界」を暗黙のうちに引き出す役割を担う。
田中は、先取り的に「微分的メタ存在」=「死」を選択し、最後の湖においてサインとしての役割を終える。


徴候とパラタクシス性は、親和する。おそらく、この両方の項を同時に扱う必要があるのだろう。
徴候優位性からなるメタ演劇という試み。そんなきまぐれな名辞は、役には立たない。
ある特異な(どう扱えばよいかが分からないという意味において)感覚をかざしてみせようとする場所が、
もはや演劇である必然性はなくなったいま、私の感覚の関心が向かう先は、空間(環境)に含まれる言語、
言語に含まれる空間(環境)の表象化。
InstallationとConstellation。間環境言語芸術とでも言えるようなそれである。


春の力学問題は、引き続きその調査を待たれる。もはや、それは春の力学の問題だけに留まらない。


2012年2月25日土曜日

f(x)=dt(Installation, Constellation)⊿t→0 ⊇骸骨考




考えるためには、考えなくてはならない。
相変わらず、 徴候 のことばかり追い求めている。
車の運転中に浮遊感覚が訪れる。たとえばそれが、ひとつの症状。





  思い至ったかのように首を垂れ、彼は自分のからだから脊椎をいそいそと取り出しながら、
  ところがどうもまちがえたと思い、もとに戻すことにしたのだった。
  そうして、今度は、自分の肉体のほうをいそいそと脱ぎはじめる。
  すっかり骨組みだけになった彼は、これでいいのだと思い、安心する。



骨組みにまで引き返せたら、私たちはようやく考えることをはじめよう。
もうすでに考えることができていたら、それはもう私たちの目指した考えではなくなっている。

そうでよかったのだよね?シモーヌ、ヴェーユ。
事の一切を骨組みにまで戻せば、そこには測り知れない予兆がやって来る。
ああそうだ。それは、なんて微妙極まりないものか。
いましかし、微妙極まりないと表してしまった途端、何もかも微妙ではなくなった。
失敗だ。



私たちが切ないとか美しいと思うときの、その思いに至る心模様を見ることがかなうなら、
きっと類似のそれなのだ。それというのは、つまり、あれだ。
指し示せないから、ここかしこに満ちている 徴候 のこと。

それの微分で、症状が垣間見られるようになる。

何度も言わなくてはならないね、シモーヌ。
ひとつの考えというものが、徴候でひたされた世界のその美しさに少しでも迫ることができると
もし聞かされたとき、どう書くかということは、その徴候をどうエクリチュールにはらませるか
ということに他ならないんだ。
その他ならない感じがね、先行しつづけるから、私は捩率で夢を見るように、
徴候に筆を(箸を?)ひたして書くんです、ねえヴェーユ。





骸骨考――。

私は、ここで差分(⊿)取引を行うのです。
すべてを、それがまだ徴候だった状態に戻すことを心がけながら逐一進めます。

一瞬で終わってしまう(0=ゼロ)になってしまうかも知れません。

   差分取引って、何ですか。


取引に関連する項目は、
   Error… 体液停止(スタージ)… Parataxis(重ね合わせ)…

そういう項目に指し示されることによって、Ⅹが徴候化していく環境芸術… Installation
しかも、「言語」の布置… Constellation の仕方そのものが徴候化を招くような方法




                      ―― すべての書割りは、徴候だ。




2012年2月4日土曜日

ありがとうございました




劇団ブリキの骸骨 第1回公演『戯曲 春の力学』のため、
劇場へお越しいただいた方に、あらためて心より感謝申し上げます。

お越しいただいた方、残念ながら今回はお越しいただけなかった方、
残されたフォトグラフィーが数枚ございます。

役者のみなさん、スタッフのみなさん、
お疲れさまでした。

20120113ゲネプロ(劇場)

20120104稽古(十三)

20120107稽古(芸術創造館)


2012年1月28日土曜日

幻想と危機




私は、ひそかに、私という人間がいますぐ消えてなくなればよいと思っている。
と、私がそう言ったとき、
一体私はその台詞のまわりにどれだけ私を存在させたがっているだろうか。
その問いは永久につきまとうけれども、それでもしかし、私はやはり、
ブランショの不在とともにありつづけたい。


ただ、エクリチュールのみ。そのためだけに、私が不在。


戯曲春の力学の公演がはねた翌日、真っ先に私が持ち出してみせた感情は、
こういうものだった。極論である。いつもそっち(極端)を選ぼうとするから、
君はいつも同じに近いと言われてしまえば、まあ肯くしかない。
しかし、私という人間は、どこかで極論にのっとられることを夢見ているようだ。
その乗り入れがもし現実になるしかない場合、私が私に許すのは、
その乗り入れを即座に受け入れるという、その幻想のことなのである。
幻想とは何か。矛盾や類推や合意や、あるいは愛惜や逼迫や追究の抱き合わせ…。


たとえば、この嘘とも本当ともとれる幻影じみた感覚が、ひとつの暴力性を後ろに
控えているということについて。霞を食べる仙人が、いつ鬼と化してもおかしくは
ないということについて。いくぶん、狡猾さを含みながら、私はそんなあたりを
持ち出したいという気分になってくる。



話を戻そう。
実は、公演後のもろもろの感情は、あるひと言で、カタがつきもする。


 ぼくが本当にやりたかったことは、何なのか。

つまるところが、ここだ。
一回が一切。自分のやりたかったことは、一回に来た一切、が請け負っている。
だから、私は一回一回を責めるつもりはない。むしろ、請け負っている一切の
方をつかまえて話をしなくてはならないはず。


私が本当にやりたいことは、何なのか。そこに危機感を持つばかり。


2012年1月22日日曜日

作<役<客 まで。また、客<役´<作´へ。

一回性の芸術である舞台は、そこで見られてはじめて、そこに存在できる。
見るという働きかけがなければ、舞台には何もないのと同じことだ。
当たり前のことだが、その当たり前のところに、すべてが来ると言っていい。
何をちょこざいな分かったようなことを、と思われるかも知れないが、
つまるところ、見てもらえてなんぼの舞台を、お前はどれだけの謙虚さをもって
つくりあげるつもりでいたのかということを自らに問い正したいのである。


春の力学は、まるで告白する者のように、不特定少数の矢面に立たされた。
役者という身体とは別に存在する、客という身体の目の前に。
3日間で140名の方に劇場に入ってもらえたことを、私はただただ喜ぶ。
140通りの客という身体によって、春の力学はどう扱われたのか。
その一端を(そんな大それたことではないのだが)、表沙汰にしてみたい。


その前に、ひとつ断って置きたいことがある。
それは、如何せん私たちは未熟であったということである。とりわけ、作・演出
である私が、劇場という環境(作・演出を除いた、客を含むすべての関係者と
その相互のあらゆる関係によって仕込まれた環境)を扱え切れていなかったこと。
はじめての作・演出であるということを差し引いても、誰かを相手にして何かしら
の表現(=告白)を行おうとするにしては、やはり、いくぶんお粗末なところが
あったのではなかろうか、と自戒の念を込めていま振り返る。


言い訳は用意していない。ただ、分かりやすさを優先するために、役者と客の躊躇
をあらかじめ排除することは、したくなかった。もし、そこに何らかの躊躇(動揺、
焦燥感、危機感、困惑、退屈、不安、嫌悪、抵抗に類する、あらゆる定まり得ない
心理の形態)が生じるならば、その躊躇の集積で劇場を浸してもらえたらいいのだ
という態度を私が持っていたことは、告白させてもらう。



以下、アンケートより適宜引用しながら、作・演出の註釈を差し挟む。
アンケートにご協力いただいた方々には、この場をかりて感謝申し上げたい。


 |ある種の「文学臭さ」が前面に出されていて、ムセ返る思いがしましたが、
 |青い湖とその上にかかる月の抒情的なイメージに全てが収れんされていて、
 |最終的に良い気分で見終えることができました。


 |詩的で、哲学的で、宇宙物理的なひとときを楽しめました。
 |重力・時間のみならず、沈黙のおどりの中に…確かにラヴェルのボレロが聞こえました。
 |私にとっては忙しい毎日を切り離せた全く気が抜けない貴重なひと時を過ごせました。


 |演劇というより、哲学の形態表現の様でした。

春の力学は、文学的演劇だったのか。詩学的演劇だったのか。哲学的演劇だったのか。
はたまた、演劇ですらなかったのか。あるいは、情緒や装置の背後に回された言葉の孤立体
だったのか。書物だったのか。正直に言って、私にもよく分からない部分が多く残された。


 |あまりにも内容が難しすぎて我々に伝えようとする内容を掴むことができませんでした。

 |人の関係性を持たない芝居を芝居としてやる意味がない。
 |もっと伝える努力が必要ではないか。


 |少し説得されてる気もして、そういうトコロはしんどい部分もあったかな。

 |僕達のような一般人に、数学者が求めるようなイデアの追究をするよう、
 |導いてくれたのか。そのアプローチだとしたら面白い。|


本の難解さは、稽古中、役者からたびたび指摘を受けていた。
もともと私はアンチストーリー派で、登場人物の関係性そのものよりも、関係性を裏づけ
そうな何かしらの徴候だけが嗅ぎ取れたらそれで十分と考えているタイプの人間である。
そういう人間が書く本が、難解になるのは致し方ない。分からない人には分からない、と
いう割り切りはある。それはしかし、伝わらなくていいというのとはまったくちがう。
伝える努力とは、伝えるスキルのことであり、それは先に私が述べた「舞台という環境」を
扱う器量のことにもつながってくるのだろう、と胸に手を当てて真剣に考えるわけである。


 |のっとられそうになる手前で、ふり払われて投げ出されて
 |久しぶりに、危機感 感じられたのが新鮮でした。


 |舞台が始まって、早々と去ってしまった田中さん。重力や存在に関する場面が
 |次々と切り換わり、少し振り切られてしまった寂しさを感じていたところに
 |置かれた最後のセリフにぐっと来ました…。


 |なんだか、ただただ悲しいという気持ちになりました。

 |精神的に四ツ足で歩いて帰らされる気分です。

危機感。空虚感。寂寥感。抑圧感。これはどれも、私が言うところの「躊躇」の類似群。
ここにこそ、見る側が舞台から受け取る「徴候」が隠れていると私は考える。
客という身体によってそれぞれの徴候が受信されることを目的として、私はこの本を
書いたといっても言い過ぎではない。徴候とは何だ?
「何かが何かに変わろうとするまにまに見られる徴候だ 〔小春の台詞より引用〕」


 |これでもかと盛りこまれた濃密な舞台をたんのうさせて頂きました。
 |抽象的な存在を現実的(?)な存在に具現化したらこうなるのかと勝手に解釈して
 |楽しませてもらいました。


 |色々言いすぎ。

 |小道具がとてもていねいに作られていてステキだった。
 |照明がすっごく効果的でステキだった。


 |表現の全てをつめ込んだ演劇だったと感じました。
 |自分の中の「これぞ演劇」という作品でした。


舞台美術こそ省略をしたものの(ほぼ素舞台に近いものになった。朱色幕1つ・かぶせの
白幕3つ・台3つ・メラ板1つ)、なるほど、たしかに盛り盛りだったかも知れない。
水を引いて水を感じるのが枯山水なわけだが、私は基本的にはこの考えで作品をつくろう
としていた。だから、大分引いた。台詞も引いた。とくに、音は引きまくった。
見せ場が多かったというのはたしかで、春の力学の生命線といってもいい照明きっかけは、
80を数えた。舞台美術の昆虫さんもそうだが、私の意図を迅速に的確にくんでくれた
照明の廣瀬さんの仕事には、頭が下がる思いである。本当にどうもありがとう。


 |2回観ても、結局、何も理解できませんでした。
 |が!今回は言葉のシャワーのひとつぶひとつぶを楽しめた…気がします。


 |テーマは難しかったですが、言葉の交錯がすごかったです。

 |言葉と表現が面白かった。

春の力学の真意は、言葉にある。照明きっかけの多さと仕掛けの多さにかくれて、本来
戯曲の本丸を担うはずだった肝心の言葉が後ろに回ってしまった感は否めない。
それは、作・演の器量の不足であり、役者が体験した困難さとムエンではない。


 |息づかいや小さな物音。沈黙が引き立っていて、繊細なイメージでした。

 |キンチョウ感は好きでした。

 |最初から集中できて世界に引きこまれて観れた。

ぎりぎりまで静かな空間をつくりたかった。それに客の身体がたえられる限りの
緊張感を芝居の中にぴんと張らせたいと思っていた。静謐と淡さ。
これが、春の力学における究極のキーワード。


 |しんどい。

過度の静けさゆえだろう、咳払いができなかった、と終演後にもらしたお客さんがいた
と聞いた。袖にいる役者も、気が抜けなかったはずだ。我慢になってしまうか、集中して
見られるか。そのボーダーラインを見定めるのが、私たちの仕事。大いに勉強になる。


 |こんなものに2000円は使いたくなかった。

辛い。が実に、有り難い。潔い。私ならば、何も言わずにとっとと劇場を出ていたろう。
わざわざペンを手にして書いてくださったのだ。私は、この人にお会いしたいと思った。


 |なんとなくですが…あと3回観たら、もう少し具体的にわかる気がした。

直立演人はこう言っていた。5回観てもたぶん分からない、と。


内容に関して、かなり突っ込んだ見方を投げてくださった方が何名かいらした。
それだけ真剣に立ち会っていただいたということだ。感謝申し上げたい。


 |重力を抑圧する事で、人類はホモ・サピエンスになったとしたら、自由落下する人間は、
 |その抑圧をはずした人と言える。まさに、その力学はアポロ的空は殺したけど、
 |ディオニソス的な春の力学ですね。でも、ニューエイジと決定的に違うのは相対化した
 |重力が「幻」(それはオイナリサン?)|として失われず、
 |空間フリーな、宇宙人と違う所は、何かを越える「勇気」を必用とする所。
 |<中略>|そこが、何処か、新しい時代の倫理云々の議論に対して、心暖まる様な
 |救いがある様な気がします。


 |ゆたかに羽ばたく力は痩せほそらず、とぼしくもならず忘れることもなく、
 |痩せほそりたければ、とぼしくなりたければ、忘れたければそうなるのかなぁ。


 |とても哲学的で、抽象的な内容を表現したいように表現してらっしゃるなぁと。
 |観客にわかりやすいように伝える芝居もやさしくてみやすいけれども、こういう
 |とことんやりたいようにつきつめた舞台もあっても良いのではと思いました。


 |重力と時間と人の生き方を合わせて神秘的な表現で心にぐっと来ましたね。

 |重力と人間生活の関係に焦点を当て、文学・哲学・自然化学からの博引傍証によって、
 |文明に対する根本的な問いを投げかける作品だと思いました。


あらためて、拝読。作家冥利に尽きる。

 |いっそ神社とか公園とか、もっとライブ性のある場所でやっても良かったのでは?

劇場という場所性をめぐる認識が、私の中で変化しているのが分かる。
劇場は、もはや私の知っていた劇場ではなくなった。



アンケートは、以上だ。

作者が書いた本が役者にわたり、役者が演出とともにそれを劇化し、舞台美術と照明と音が
そこに入り、場所化(立体化)される。それが客にわたり、客という身体を通して、見方を
差し入れられ、評価され、役者に返される。そして、最後は、その作品そのものへ戻され、
問い返される。


多くを学んだ。多くを問われた。自分の器量もよく分かった。

最後に、この告白で拙文をしめくくろう。
私は、演劇に失恋をした。